【メンヘラ彼女】との恋愛はなぜ苦しい?
この恋愛は幻想なのかなぁ・・・?
こういった人向けの記事です。5分ほどで読める文章量。
- スズキイチロー(36)
- PA(舞台音響)カンパニーに所属
- 音響ブログも執筆
- ネクラなnoteも執筆
- 甘酸っぱい交換日記も執筆
- ブロガー集団・アドセンス解放戦線代表
- こじらせ団体・メンヘラの止まり木主催
- Twitterの一部界隈においてカルト的な人気と噂
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⇨【永田カビ】の漫画を無料で読むなら32000冊以上読み放題の【スキマ】がおすすめ!メンヘラ彼女の魅力を考察・恋愛幻想論シリーズ2【経験談】
メンヘラ女子は”可愛い”によって支えられている
スズキイチロー
前回の記事から「恋愛は幻想なのかもしれない」と書いてきた。
そして書けば書くほどに自分の中でも「幻想乙!」みたいな雰囲気になってきている。
それでも”メンヘラ女子”に振り回される”こじらせ男子”としてここで示しておきたいのは、
「僕ら(こじらせ男子)は決してアホなマゾヒストじゃないし、見ていて痛々しいとは思うけれど結構楽しくてまんざらでもないんだよウヘヘ」ということです。
世界の中心で全米が泣いている状況を楽しんでいるんだよ、と。
(共同幻想については前回すでに述べた)
僕らの崇拝する”メンヘラ女子”は可愛い。それはもう抜群に可愛い。
彼女らの起こす「事故・事件」によってソレはネガティブに語られがちだが、その反面”全身全霊をかけて恋愛に取り組むパワー”や”好きを具現化できるクリエイティブさ”は本当に魅力的だ。
使う方向がアレなだけでメンヘラは頭の回転も抜群に早い。
全てを受け入れてヒーローになりたい”こじらせ”にとって全てを受け入れてほしい”メンヘラ”はまさに麻薬。
ただの恋愛がalc3㌫”ほろよい”なのだとしたら、メンヘラとの恋はもはや”モルヒネ”もしくは”ヘロイン”。
あるいは”LSD”でもあるし、結局は妹分の”スピード”でもあるから最終的には”安室ちゃん”と言える。
Just Chase the Chance・誰も止められない(警察や医者が介入しても止まらない)Wild & Touch・暴れだした欲望(死ぬほど好きだから死ぬほど好きと言え)Just Chase the Chance・愛も夢もぜんぶ(そして時間も全て私に捧げろ)この胸にはいつだってあふれてる(窒息するから助けて早く来ていいから来て)ーーーーーChase the Chance
“ゆるふわ”も”コンサバ”もしゃらくさい。
僕ら”こじらせの民”は暴れ出した欲望が表面張力を超えてしとどにダダ漏れ状態のメンヘラ女子の虜になってしまう。
先に述べた「メンヘラ女子は”可愛い”によって支えられている」という理由は、
この”暴れ出した欲望”を”あふれてる”状態にすることが「ある程度可愛くないと不可能だから」ということに尽きる。
メンヘラ女子は自身の”可愛さ”を武器にメンヘラパワーを発揮させる。
(こんなに可愛い私・これほど白い私・それなのに苦しむ私・だから早く来い)
自身の武器の切れ味・破壊力・殺傷能力を軍人が正確に理解しているのと同じように、メンヘラ女子も自身の”可愛さ”は恐ろしいほど冷静に分析しているのである。
だからこそ自分の”要求していい範囲”や”要求を飲んでくれる人材”に関して正確に把握しており、こじらせ男子はいつだって自分の限界ギリギリの能力を求められることになる。
いつだってあの子たちはコーナーギリギリを突いてくる。これはメンヘラ女子の悪い癖だ。
ギリギリ崖の上を行くように(単位が取れなくて留年しそう)フラフラしたっていいじゃないかよ(夜中に毎日起こされて寝不足)それでも前に行くしかないんだから(だってそうしないと怒るから)大丈夫 僕の場合は。(元カレたちには負けたくない)ーーーーーギリギリchop
以上のことはメンヘラ女子が彼氏の元カノのことを特に”容姿”で意識しがちな面からも説明できる。
(元カノが自分より可愛かった場合メンヘラはビックバンを起こし呪いのブラックホールが誕生することになる。要注意)
つまりはこじらせ男子側の共同幻想が一方的に終焉を迎えるよくあるケースは、
“メンヘラ女子が可愛くなくなった”状況であり、その時がまさに”メンヘラ女子の黄昏”なのだ。
メンヘラ女子がメンヘラ女子でいるためには、どんな時でも”可愛さ”だけは忘れてはいけない。
こんな風に”こじらせ男子”と”メンヘラ女子”の関係性を紐解くほどに”恋愛幻想論”が固まっていくことがわかる。
そこでシリーズ第2弾の今日は”恋愛は幻想”だということを踏まえた上で、それでもなお”恋愛という共同幻想が人間に必要な理由”について考えてみようと思う。
ポプテピピック(大川ぶくぶ/竹書房)
こじらせ男子とメンヘラ女子の関係性と特徴・その必要性について
はい。ではなぜ恋愛のような幻想が人間に必要なのか考えてみると、社会の中で恋愛は男女の関係構築の基盤として活用されていることに気付く。
男女の関係は恋愛以外においても成立はするけれど、いかなる場合においても男女は互いに幻想を基盤としていて、これは現代社会においても未だに根強く残っていると感じる。
(重いものを持つのは男性。お茶を出すのは女性。みたいな)
そのような現状の社会において男女の関係を”より安定したもの”としようとするならやはり恋愛という幻想がしっくりくるのだろう。
メンヘラ女子の視点で考えると、その性質的な特徴から”自分でじぶんのご機嫌を取る”ことが非常に困難な人種だと言える。
ささやかながら自分の気分を良くする方法ではなく過剰な方法を選びがちなのは最もポピュラーなメンヘラあるある。
そのため社会参加の目的以上に恋愛に自身の安定と承認を求めることになる。
しかも先に述べたような溢れ出るメンヘラパワーは「誰も止められない」。もちろん自分自身にも。
メンヘラ女子単独ではメンヘラパワーを安定化・固定化させることが出来ない。
そのためメンヘラパワーを遺憾なく発揮(発狂)するためにはやはり相応の相手やステージが必要になる。
つまりは前回の記事で記したように「メンヘラ女子を増長させるのはこじらせ男子だ」という結論は必然だと考える。
誤解を恐れずに言えばこんな感じになると思う。
それを踏まえた上で「恋愛は幻想」として話を進めると、”理想の相手なんかいない”といって男女の相互的な関係を持つことを放棄しているのが非リア充の大きな理由の1つになり得る。
だって恋愛を幻想とするならば、”理想の相手はいない”と思えば”いない”し、”この人が私の理想なのだ”と思えれば”いる”。
だから、ふたりだけの共同幻想の中でどっぷり甘い蜜に浸かれる”こじらせ”と”メンヘラ”は他のどの人種よりも”恋愛というエンターテイメントをエンジョイしている”と言うこともできるからだ。
この角度から恋愛を語れば、昔の人が言った「恋愛は芸術だ」という言葉もすんなり飲み込めることに気付く。
芸術としての様々な作品の価値はそれを構成している素材にはなく(木材や紙やインクに美的な芸術としての価値はない)それは恋愛にも同じことが言える。
では恋愛を構成する”素材”とはなんだろうか。
それこそがまさに恋愛を幻想と呼べる最大の理由になっている。
恋愛における素材はここまで”こじらせ男子”と”メンヘラ女子”を考察する中で浮き彫りになった・・
- 子どもじみた願望(ちゃんと愛してほしい=愛してるから物を投げないでくれ)
- 自分勝手な期待(言わなくてもわかってほしい=はい今すぐ行きます終電ないけどタクります)
- 性的な欲求(わたしだけ求めてほしい=飲み会にはもう行かないからスマホの画面を割らないでほしい)
- 打算・計算(この角度からの私を愛でよ=メンヘラかわいいよハァハァ)
だと考えらえる。これって全て”幻想”以外のなにものでもない。
幻想に幻想を合わせてこねくり回して作られた”幻想”が”恋愛”なのだと考える。
ともすれば幻想とされる素材に価値はなくとも、いびつにも完成に至った芸術(恋愛)には価値を見いだすことが出来るかもしれない。
ここまできてやっと前回の最後に述べた「否定論的に”幻想”という言葉を使うのではない」というセリフに繋げることができる。
どのような芸術でも見る人によってその価値は大きく変わるだろう。
そのような他者的でない人間的な豊かさとして”恋愛という幻想”は存在し得るし、それがたとえ”まぼろし”であったとしてもより個人個人の人生を華やかに彩ってくれる。
数値化できない・比較できない自分自身の尺度で作られた想いは強い。
だからメンヘラの愛はいちいち重いのだ。
ポプテピピック(大川ぶくぶ/竹書房)
メンヘラ彼女の魅力を考察・恋愛幻想論シリーズ2【まとめ】
“恋愛幻想論シリーズ”第2弾は「恋愛は幻想であった」という説を確固たるものにすると同時に、それでも「恋愛が人間に必要な理由」について考えてきました。
次回はこのシリーズの最終回として”恋愛幻想レベルをいかにして高めていくか”について考えていきたいと思っています。
なんだか書けば書くほど”メンヘラ女子”に苦しめられているみたいなテーマだけれど、繰り返し言うと僕たち”こじらせの民”は「相手からの執拗で異常なほどの愛情(の名を借りた要求)」が大好物なのだ。
だからこそ前回書いたように黒歴史のような過去を子育て中に思い出してしまったりする。
なぜなら、種類や質は違えど子供からの愛情もたしかな重みがあり、そのベクトルは一貫してブレることがない上に、全身全霊の愛情を込めてこちらを全肯定してくれる。
そういったわけでメンヘラ中毒に陥ってきたし、メンヘラジャンキーとして周囲をハラハラさせてきた過去がある。
そして、依存させて優しく許すという愛情表現しか持たない”こじらせの民”はもともと”軽メンヘラ”だった女子の潜在能力を引き出してしまい、最終的に”超重量級メンヘラ”に育て上げてしまうというヤベー性質を持っている。
これに関して僕らは本当に本当に大いに反省をしなくてはならない。
そして、その調子で子育てもしていては非常にまずい。
駄々をこねる子供の要求を際限なく飲み込んでいった結果を”こじらせの民”である僕らは知っているはずなのだ。
今度トイザらスで発狂する子供に言い聞かせよう。
「パパはもう”こじらせ”にはならない」と。
いい感じの話にして締めたかったけどなんかちょっと無理でした。
今日はもう寝ます。おやすみなさい。また次回”こじらせ”と”メンヘラ”の深淵で会いましょう。
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