【後編】人々がお金にこだわる理由について

イチログ!を好きなことでお馴染みの皆さんこんばんは。イチローです。

実はね、わたし。けっこう前にこんな記事を書いていたことを思いだしたんですよ↓↓↓

なんなん?前編って・・・後編書く気あったん?って3月の自分を問いただしたい。

読み返してみると、途中で眠くなって投げやりに終わっている。なるほど俺はこの期間、なにも成長していないっぽい。

この数週間、仕事にかまけて俺はブログめんどくさビームを垂れ流していた。

どういうメカニズムかはまだ解明されていないが、イチローはブログを書くめんどくささが一定以上に達するとビームが出せるようになってしまった。

周囲の人間にうとまれ、Twitterに入り浸るようになる。自分に効いちゃうタイプのビーム。

これを読んでいるみんなも、ブログめんどくさビームを浴びせられないために、ブロガーとは極力関わらないようにしたほうがいいでしょう。

まぁ、愚痴っててもアレなんで今日はこれの続きでも書きたいと思います。

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以前、育児の価値化の記事でも書いたような話だけど、価値がある・価値がない、という軸しか持たない考え方に、人は支配されつつある。

人、一人ひとりが本来持っている価値は消えかかっており、人に付随する価値にしか注目が集まらない。

価値のあるものは、つまりはそれが価値あるものになっている。

こう考えてみると、俺たちはみんな、資本主義社会という出口のない迷路に放り込まれているような気がしてくる。

勉強とか、人間関係すらも、目的がお金だってことがザラにある。

そんな人付き合いは、なんだかとてもゲロゲロである。

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そんなスナフキン的な考え方とは裏腹に、「人間のためにお金がある」のではなく「お金のために人間がいる」という価値観は、もう世界のどこにでも転がっている普遍的なものになった。

たとえば、「新型のウイルスでどれだけの人が死んでも経済は回し続けるべきだ」という言説も、「非労働者(生産的でない人間)」を蔑ろにし、病人や老人たちを「非人間」とする価値観の表れであるとも取れる。

このへんの話の大半は、人間ひとりひとりの知性に委ねられている。

やさしさとかは、人それぞれ手づくりの感情であると、本田透(フルバ ex 花とゆめ)の母も言っていたので、たぶん間違いない。

ひとの知性というのは、計算が早いとか、仕事ができるとか、そういう部分じゃないところから感じたりするのは、これによるところが大きい。

自我構造の流れを汲んでお金ってものを考えてみると「これだけお金があれば幸せになる」だとか、

「これしかお金がないので幸せではない」というような思い込みの幻想が、その人とお金のスタンスを形作っているように思う。

人生などを考えた時に「1億円あれば幸せになれるはずだ」だとか、「公務員と結婚すれば幸せになれる」だとか、

あるいは反対に「金が手に入らないから不幸なのだ」だとか、「元カレが裏切ったからこうなった」という思いこみは、

それが実際に自分を「幸福に」しているのか、「不幸に」しているかには全く関連していないことが多い。

単純に、お金ってものが自我を支える一種の幻想として機能していると考られる重要なポイントだと感じる。

さらに自我構造に踏み込んでいくと、お金の価値が人間の主観的な価値観を見失わせてしまうように、SNSなどの指標もそれ自体の存在意義に取って代わってしまう危険性を孕んでいる。

フォロワー何万人・・・合計いいね何万突破・・・その文言が持つ誘惑を通じた、SNS人気という価値観念はなかなか無視することができない。

それでも先に述べたように、愛好や共感の類ではなく、支持を集めているから支持しなくてはならない、と考えている人がいるならば、やはりその場合も、手づくりの知性を備えるところから始めなくてはならない。

自我構造の根底まで降りていくと、そこにあるのは虚無という恐怖である。

他者的な価値観に染まりながらも、人間の感じる本当の恐怖ってものは虚無だと思う。

何かを得られない恐怖や、何かを失う恐怖よりも、

「実際にはそれを得てもまったく意味がない」

「実際にはそれを失ってもぜんぜん平気である」

これらを知ってしまうことの方に、人は怖れを感じる。

人は自身の生に動機づけを必要とする。ただただ呼吸することを可とすることができない。

苦痛にも、無意味にも耐えることができず、人生に対する意味づけを失ってしまうと、人は簡単に自分でじぶんを殺してしまう。

人間というものは例外なく、もれなく、等しく、みんな死ぬのに。

この時に対抗手段になり得るようなものってのは、人間が本来持っている【豊かさ】なのだと考えられるが、これが金銭のような他者的な何かに委ねられたものだと、価値基準が曖昧になって苦しくなる。

人によってそれぞれがどのようなことに価値を見出し、満足するのか、その基準はバラバラのままでいい。

にもかかわらず、その主観的なものさしでさえも、社会で生きていると【お金】であったり【時間】といった客観的な価値観に変換されてしまう。

「それって結局、お金にするとどのくらい価値があるの?」

「その時間をかけて、時給に換算するとどのくらいなの?」

ある人の満足感は、別の人にとっては価値のないものだ。

豊かさは数値化できず、価値の互換性もない。変換の効かない概念を一律に均そうとするから苦しくなる。

俺は不登校気味の高卒で、教育なんてものの本質はなにもわかっちゃいないが、

公然では「みんな違ってみんないいんだよ」と言われながら、影で「テストの点が悪ければ社会のお荷物になる」と叱りつけられて育った人間たちが双極的な性質を持ってしまったとして、それは本人の責だろうか。

人は本質的に、与えられたものを大切にすることや、感謝の念を抱くことくらいしか具体的にできることがないのに。

太陽は休みなく地球を照らし、生命を循環させていく。

子を持つ親も同じように、無条件に子どもを愛し、育てる。

これらは【豊かさ】の象徴であり、つまりは理由がなく、途切れることがない。

金銭取引というものが、過去の清算を意味するならば、贈与関係は未来の創造かもしれない。

贈与者は、その場で対価を求めたりはしない。ほとんどの場合、受け取ってくれることすらしない。

また、どれだけ頑張ったところで、その贈り物にふさわしい存在になれるわけではない。

無償で、惜しみなく差し出されたそれを、甘受するほかにない。等価交換しようにも、それに値するものは存在しないのだから。

自分はつまりこういうことを考えながら生きていて、選択肢を増やしながら、お金をはじめとした他者的な価値観に依存した生き方から離れていきたいと思っている。

それぞれが自分でできることが増えていけば、社会のシステムや価値観念がポッキリ折れてしまっても、割とポジティブな気持ちで過ごしていけるのではないか、と考えている。

個人の持つ豊かさとか、出来ることとか、自由度を上げておきたいと考えて行動していて、このブログだってその一環なのだ。更新頻度めっちゃ遅いけど。

なんだか雑記ブログって、誰に頼まれたもわけでもないのに始まって、別に収益なんかほとんどないのに、更新しなかったらしなかったで、後ろめたさだけはちゃんとあって、本当ムカつきますよね。

皆さんも、ブログにはくれぐれも気をつけてくださいね、ってお話でした。

今日も付き合ってもらってありがとうございます。寝ます。

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