【育児の価値化】存在を肯定されない子どもたち【さくらももこに学ぶ】

考察してみた

資本主義と子育て・条件付きの愛情について考える

子供に何も起きないようにしたら、子供は何も出来なくなるわ

ファインディング・ニモ/ドリー

こんばんわ。今日は”働かないシリーズ”で書くことのできなかったスマッホのメモの供養のための文章を書いていこうと思う。今回は主に育児のことについて。

いちおう子育て中の身なので、育児に関して考えている時間が長い。1日のほとんどの時間、子どものことについて考えているような日さえある。

今までも雑記記事の中で育児とか虐待について考えてきたけれど、この辺のことを総合して考えてみると、子育てってものはキレイゴトだけで片付く問題ばかりではなさそうだ。

実際に未婚の友達からなんかは「結婚や子育てにメリットを感じない」という意見も多く聞くし、色々なケースを見ていく中で「子どもが大切でない親」は確実にいると感じる。

さらに言えば「子どもは大切だけど、愛し方を間違えている親」も思ったより多い気がしてくる。

今日はけっこうネガティブな内容になりそうなので、大好きなさくらももこ先生のイラストで中和しながら話を進めていこうと思う。

全てじぶんには関係のない他人の話とも言えるが、なにもかもを人ごとにして人生をフルスイングできる者は意外にも少ない。

自戒を込めつつ書くことにする。

さくらももこより

自分は育児というものに関わる問題は、ほとんど全てが親の自分勝手であり、押し付けがましい行為であると考えている。

産まれてくる子どもたちは”生きること”の意味であったり”人生”に関しての考え方であったりの十分な説明をされないで、他者の都合で勝手に作り出されるからだ。そもそも人生の意味を理論立てて説明できる人間がいるのかは知らないけれど。

これは出生主義とかの話でもよく聞かれることだけれど、生まれてくる前からその人生が確定的に悲惨であるか幸福であるかが決まっているのであれば、命の選別が進んでいくはずだ。

しかし、そんなことは倫理的に不可能だし現実にはどのように生まれても幸・不幸どちらの人生もあり得るわけで、現在の出生の是非に関しての価値観は「おそらく良いこと」という位置で保留されている。

この話を考えた時に命題の根拠として親以上の世代が語る「とはいえ子どもは可愛い」という根拠は個人のエゴに集約される。

それは当たり前の話で、子どもの可愛さは子どもが甘受できるものではないからだ。

この辺のことを冷静に考えていくと、本当に子育てってのは究極的に親のエゴイズムだな、という結論になってしまう。今のところのじぶんはそんな感じの考えかたを持っている。

育児中の気付きについて

育児をしていての気付きは本当に多く、その中でも教育というものは自分自身の器以上のものを他者に与えることができないことを思い知らされる。

親は自分の感性や人格以上のものを子ども与えることはできないし、持っている徳性がそのまましつけに反映される。

たぶん、どこの親も自分の持っているもの以上を子ども与えようとするので、人間は裏表のある存在になっていくのだろう。この意見もネガティブに過ぎるだろうか。

自分は男性なので、どうしても父親目線でしか育児を語ることができない。それでも日々、考えたり思ったりすることは多くある。

仕事を理由に育児から逃げる透明な父親は、その後の人生で絶えず妻により糾弾され、その罪を金銭によって補填しようと努めてきた。

しかし最近では”イクメン”なる言葉の意図的な流行によって「妻が手のひらの上で旦那を転がす」ことで育児の一端を担わせようとする風潮がある。「パパ育」なる言葉さえ生まれてきた。「パパ活」と混同して困る。

つまるところ旦那がどれだけ育児に協力的であるかは、妻の教育しだいであるという世間の共通認識はなかなかに根深い。

そんな感じなのでどの育児本も基本方針として「パパを大げさに褒め殺して家事をさせようね(はーと)」のようなことが書かれている。

はぁ・・こんなその場しのぎのやっつけ仕事で育児が成立すると思っている人がいるのか。これは問題の本質が全く見えていない愚策であろう。

ここでNGを出したいのは、もちろん「褒める」行為であるとか「感謝する」行為そのものではない。

夫婦ってのは完全に対等なパートナーであるので、同じ方角を見て、同じ景色を目指しているものだと考える。

それなのに”育児”という一大プロジェクトを、片方が片方の機嫌を取り続けなければ遂行できないパートナーシップってなんなん?

子育てを価値化することについて

育児をしていると、それに付随して強制的に考えさせられるのがお金の話。教育費、医療費、生活費、レジャー費。書いててため息が出てくる。

っていっても今回言いたいのは別にライフプラン二ング的な話ではない。

育児をしていての気付きの中には”物事の価値化と子育ては相性が悪い”ってのもあった。

価値のあるものとはなにか?それは金銭を発生させるもの。

金銭を発生させるものとはなにか?それは価値のあるもの。

市場原理と資本主義のトートロジーはもはや手垢まみれの使い古された表現だ。しかしこのトートロジーを子育てに適応するとどういった思想が生まれるだろうか。

子どもの世話は親にあらゆる犠牲を強いる。莫大な手間、甚大な時間、多額の支出。

その要求に対して、大多数の親は愛情を持って接し、寛大な心で対処する。大人ふたり分の人生を捧げて、ようやく子どもは社会に適応する。

ではこの子どもは果たして犠牲に見合うだけの価値を生むだろうか?

たぶん、この文章を読んでいる多くの人がこの時点で気づいているだろうけれど、この問題の重要な点は「子育てには価値がある」と主張することでもなく、「子育ては価値がない」というニヒリストを憂うことでもない。

そもそも子育てを”価値化”しようとすることそのものに問題がある。

資本主義社会に生きていると市場原理に精神を持ってかれてしまうので、ありとあらゆる無駄なものを排除しようとする心理がはたらく。社会はあらゆる意味ですでに貧しい。

役に立たないもの、いつ役にたつかわからないものにソースを割くことはその精神に反しており、未来に対する投資は敬遠されてしまう。

未来に対する投資とはすなわち「一見無駄に見えるなにか」であり「その時は利益を生まないなにか」である。こんな社会の状態では弱者への風当たりが強いのは当然かもしれない。

そしてさっき説明したトートロジーを実生活に適応すると「無条件で価値あるものが存在することはおかしい」という壁にぶちあたる。

この辺の思想が、世界のストレスの元凶になっているんじゃないかって思ってしまうほどこの考え方は社会に溢れている。溢れ過ぎていてハリーポッターの序章のポストかよって思う。

価値化の副作用について

ものごとの価値を測る行為、いわゆる”値踏みする”って行為の重大な副作用は、推し量る実態が個人の意思を離れてしまう点に集約される。客観的にものを見なければ商品価値はわからない。商品とは自分自身ではなく”他の誰かを喜ばせるもの”として世の中に存在を許されるからだ。

これを育児に適応してしまうと子どもは自分自身の存在を許されるために、他の誰か(多くの場合は父か母)のご機嫌を取り続けることになる。

そこには子ども自身の意思は存在しない。手に取るあらゆるものは他者的な価値観に委ねられ、常に誰かや何かの判断を仰ぐ事になる。育児の価値化っていうのは子どもの人格形成とはかなり相性が悪いことがわかる。

この辺の育児の価値化の話をさらに掘り下げていくと、反出生主義みたいな考え方にもなってくる。

“命は尊い”というのは社会のルールによって制定されてはいるが、社会に生きている各々が実感として感じ取れなければただのペラペラの紙に書かれた文章でしかないからだ。

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

日本国憲法第十三条

人生の途中で「人間は何かの役に立つ道具である」と教えられたり、そのように実感している人間はいつでも「役に立たなければいけない」と考え、その結果「自分はもしかして役立たずなのではないだろうか?」という疑心暗鬼に襲われ続ける。

自分は役立たずで生きている意味がない。ともすれば自分よりもさらに役立たずな存在は自分よりも苦痛にまみれた人生を送らなければならないはずだ。このようにして人間の終わりのない足の引っ張り合いは続いていく。

自分自身を道具として扱って生きていると、このような負のロジックに人生を絡め取られてしまう。そんなこんなは、ほとんど全てが幼少期の教育の成果であり、言い換えれば虐待の結果であると言える。虐待も過干渉も自己を窮屈に合理化させるロジックを生み続ける。

考えてみれば当然のことで「役立たずの人間は生きる価値がない」という考え方は「自分を無条件で受け入れてもらえる」家庭で育った人間からは決して生まれることがない。

そして無条件での愛情は、まさに”命は尊い”と同じような感覚的なものであり、言葉や物質で他人に与えられるものではない。

虐待を受けたり、何かの成果を差し出さなければ生存が認められなかった子どもにとって、生きることは絶えない価値の生産であると考える。その価値の生産が止まってしまった時、簡単に精神は死に追いやられる。

いままで、騙し騙し見て見ぬふりをしていた問題は、いつだって絶望と一緒に外に漏れ出してくる。

さくらももこより

多くの親たちは子どもを無条件に愛していて、子どもの態度に関係なく育児に奔走するその姿は、太陽光をはじめとした自然の恵みのごとく、理由がなく途切れることがない。

自然の恵みというものは、地球上にいる存在すべてに対して無償で与えられる。生物活動は直接的・間接的にその恩恵を甘受し依存していて、この点からいかなる生物も独立して生きていたり、自立して歩んでいるとは言えない。

このような途切れない恵みは生物に対して「存在していてもよい」という慈愛に満ちたメッセージを送り続ける。

人間の親子関係も、自力で生きることのできない子どもに対して、父母の献身的な世話が「あなたは生きていてもよい」というメッセージを送る。

愛され、存在を許されているという事実は、そっくりそのまま存在意義として子どもを支え続ける。

子どもにとって虐待やネグレクトはこの無償の愛が途切れてしまうことを意味する。それはそのまま子どもの存在意義を脅かし、自己を肯定するシステムが機能しなくなる。

ここで出てくる価値化の問題は、このようにして存在意義を失われた子どもたちが、失われたそれらを金銭によって担保しようとしてしまうことだ。

僕らは例外なく金銭なしには生きていけない社会に属しているが、その事実は逆に”金さえあれば存在してもよい”という価値観を生み出す。金銭を生きていくために必要なもの以上の、存在してもよい条件に押し上げてしまう。

人間は本来、ただただ自分のことを好きになりたいだけなのに、それを金銭に委ねざるを得ないのはめちゃんこ悲しい。

さくらももこより

ネグレクトと過干渉・共依存からの脱出

資本主義社会において金銭は一種、精神安定剤のような役割を担う。親からの愛情が途切れてしまった不安やら、自分という存在の頼りなさを金銭によって補う。お金があるから私は生きていてもよい(はずだ)。金銭は他者的な価値観であるから、絶対的な確証が持てない。不安は常につきまとう。

なにもこれらは虐待やネグレクトだけが発端ではない。先にも述べたように親からの”過干渉”も同じような結果を生む。

過保護な親というのは、自分の子どもを自己の延長としてとらえ教育する。子どもを過剰に心配し、先回りし、障害を取り除こうと努めるのは、子どもが傷つくことと自分が傷つくことの区別がついていないせいだ。

そもそも人間同士はどのような関係性であっても、あくまでも他人であり、精神を共有することなどできない。

精神的に自立をしていない人間が他者に与えることのできる愛情は、結局のところ自己愛の延長でしかない。つまりは過保護な親というのは自分の都合で子どもを愛しているに過ぎず、自己の延長として子どもをコントロールしたいだけだと言える。うまく子どもが機能した時だけ、その子は条件付きで親に愛されることができる。

現実には自分自身を受け入れられていない子どもにとって、親の求める要求に応えることは生まれ落ちた世界で生き残る唯一の方法になる。結果的に子どもたちはその年齢には不相応な配慮や能力を身につけ、周囲の機嫌を取り続けることになる。

常に脳内で否定してはいるが、子ども自身は、自分は本来愛されていないことや、親に要求される理想の型に自らがそぐわないことを知っている。

ある年齢において自分は”親の劣等感を代わりに晴らすために生きている”ことを実感する。その時、反抗できればまだ幸せかもしれない。その時点から自分自身の人生を歩むことができるからだ。

そのような状況から、仮に助けてくれるナニカがいたとしても、自分が救われてもいいかどうかを決めるのは自らであり他人ではない。

ナニカに救われる運を持っていたとしても、あらゆる価値観の依存から抜け出すには、自分を許すという果てしない作業が必要になる。

さくらももこより

愛されて育った人、理由なく存在を肯定されて育った人は、最初から「自分は存在していてよい」という感覚を持ち合わせている。その感覚は必然的に「どうやって人生を生きていこうか?」という前向きな考え方につながっていく。

かたや、愛されずに育った人、存在することに見返りを求め続けられた人は「自分が存在するためには価値を差し出さなければいけない」という潜在的な不安を内包して生きることになる。

この場合、自分で自分に生存権を与えることができず、他人や他者的な価値を介することでしか存在意義を見いだすことができないので、他者への奉仕の中身には”満たされない自己”の卑屈さと”満たされたい自己”の傲慢さが共存する。

依存的な人間というのはすなわち卑屈であり傲慢であるということがわかる。自己犠牲や他者への奉仕が多い割に、他人に好かれることが少ないのはこのためだ。

だいたいにおいて他人にモテる人間というのは男女問わず、身体の5%がタンパク質、15%が水分、80%が侠気(おとこぎ)で出来ている。自己肯定感があれば、卑屈にも傲慢にもならず生きていくことができる。

さくらももこより

肯定されない子ども・依存する大人・まとめ

人間はそもそも「生きていてよいから生きる手段を選ぶ」という存在であるのに、愛されなかった人間は欠乏した自己に生きる理由を注ぎ続ける人生を強制的に送らされる。

孤独や喪失感から逃れようとして他者を愛する時、その愛は必然的に相手を貪るような溺愛になる。

もちろんその愛情は、相手を孤独から逃れるための手段や道具として見ているに過ぎない。多くの人がそのことに自覚的にならず、相手のために尽くしていると思い込もうとするのは自身の孤独という地獄を見たくないからに他ならない。

そのような人生の中で”これがあれば幸せになれる”という依存の対象は、他人から他人であったり、物から物であったりと移り変わっていくのだが、何度も繰り返すうちに”どのようなものであっても自己の欠乏は埋まらない”ということに気付き始める。

この気付きは達観を経て、妥協を超えて、諦めをもたらす。ただただ苦痛に耐えるだけの生活を経て、かりそめの幸福アピールやペラペラの見栄を張ることすら放棄したとき、人間は無感動の闇の中に放り込まれる。

幸せっていうのは、他者と比較するものではなく、自分の経験のなかの相対性であると考える。

さくらももこより

育児の価値化は、子どもの存在を無条件で肯定できなくなってしまう。無条件で存在を認めてもらえない子どもは存在意義を満たすためだけに自分の人生を消耗することになる。

SNSなどでは”育児がんばっているアピール”で溢れているが、思うに親が子どものためにがんばるのってすごく普通で、えらくもなんともない。

本来、親が子どもの面倒を見ることなんてのは、太陽が毎日地球を照らすようにあたりまえのことで、子どもが気を遣って親のためにがんばる必要もない。あらゆる自然からの恵みに対し、僕らができることはせいぜい感謝することくらいだったはずだ。

人間の贈り物をいちいち自然は受け取ってくれたりはしない。恵みに対してなにかを返しているようなオコガマシサを持つことは避けたい。

子どもは子どもの人生だけを生きればいい。それが結局は本当に自分を愛してくれている人のためになる。

今回の文章を要約するなら、つまらない他人の言うことを聞いていると、どんな子どもだってつまらない大人になってしまうってこと。つまらない他人の意見には耳を貸さないようにするといい。そうすればちゃんと自分の人生に戻っていける。

従うべきものは「自然の摂理」だけ。持ち物は「自分の感情」のみ。このくらい身軽になれると簡単に人生を楽しめるかもしれない。

「トキめかないものはトラウマも思い出も断捨離しましょ⭐︎」

コンマリメソッドは人生にも掃除にも役に立つことがわかる。

読んでもらってありがとうございました。

長文お疲れ様でした。

さくもももこより

コメント

  1. […] それっぽいことを考察したり書いたりしているけれど基本的には、 […]

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