【最底辺の】恋愛幻想論シリーズ3・こじらせ男子が思うメンヘラ女子との幻想【恋愛を考察】

恋愛幻想論

“こじらせ”と”メンヘラ”の恋愛は幻想だとしても・恋愛幻想論最終章

こじらせ男子もメンヘラ女子も、自覚するところから全てが始まる

ーーーーーイチロー(アラサー/こじらせの民)

誰にだって黒歴史はある。

失敗のない人生はあり得ないし、誰でもその都度軌道修正しながらなんとか生きている。

よくあるシチュエーションとして、演奏がヘタクソなバンドを見て小馬鹿にする連中がいるけれど、それは間違っている。

むしろ「なにも出来ないし、なにもわからないけど、なにかしたい」という姿勢はアウトプット先行型の人間として評価されていいし、尊敬に値する。

なんにしても恋愛もバンドも一人で出来ることじゃないから、どうしてもパートナーが必要になって共通の幻想を持つことが重要になる。

(目指すべき場所・目指すべきものが一致しなくては一緒に居ることができない)

このような人間の「なにも持たないが思いだけはある」という状況において”音楽や恋愛”というものはアウトプットとしての受け皿になりやすいし、その汎用性は国境や人種を超える。

単純に言うとそれらが他人同士で行われる行為である以上、互いが共通の景色を見ていなくては幻想が成立しないという話だ。

人間同士の関係性はバンドや恋愛に限らず、お互いの共同幻想のレベルが純粋にお互いの関係性の”強度”になっていると仮定して話を進めることにする。

“こじらせ”と”メンヘラ”の関係性の強度については色々書いてきたが、先述した要素を踏まえて改めて考えてみると、このふたりの関係性は一般の人が思うほど強くない。意外に脆い。紗々みたいに脆い。

今日は特に意味はないけれどグラフに書いて説明してみようと思う。

ポプテピピックより

手間がかかるうえに未来も見えない、めちゃくちゃ非合理的で理不尽な要求でも「君の笑顔が見たいから」と自己陶酔の海を泳ぎまくり「彼女のため」を理由に自分のことを客観視することもせず、結果的に人生の様々なことが疎かになっていく”こじらせ男子”の頭の中を表すとこうなる。

イチロー調べ

自分一人の面倒も満足に見れず、故に何かに依存しなくては生きてさえいけないのに極度の人見知りで、捕まえた都合のいい彼氏を日常的に軟禁状態にし”結婚相手としての将来性”さえ潰していく”メンヘラ女子”の頭の中を表すとこうなる。

イチロー調べ

端的に言えば、その場しのぎで刹那的な感情の連続でこの二人の日常は成り立っていると言える。

依存度は共同幻想・関係性の強度という要素に直結しない。

(特に結婚のような持続的な関係構築の際には注意すべきだと感じる。恋は盲目でも2人だけの世界なのでどうにでもなるが、結婚に盲目になれば待っているのは地獄)

なぜ”こじらせ+メンヘラ”の関係性が濃いものに見えるのか?という疑問に対しては、ふたりの日常風景にすでに答えがある。

こじらせ男子の”メンヘラ彼女との思い出” のアンケート結果がこちら。

イチロー調べ

どれもこれも傍目にはドラマチックに映るが、これらの実態は二人にとってはいわゆる”プレイ”の一環で、もはや”前戯”と言って差し支えない。

(アラサーなって冷静に考えてみると”傍目にドラマチック”に映っていたのはか甚だ疑問だ)

というかこのような一般人の感覚でいう「地獄」を互いに投影した”美化された自分”というもので慰め、楽しむことが出来ないと”こじらせ男子”にも”メンヘラ女子”にもなることが出来ない。

この理論でいうと二人はお互いのことを愛するどころか直視すらしていないことになる。

そしてそのどちらか一方でも物理的問題などによって強制的に夢から醒めることになれば、二人の関係は一瞬にして終わる。

なぜならこの関係性は、新たな依存先(自己投影可能な他の人間)で代替えが可能な非常に簡素なシステムだからだ。

ここまで考えてみて「不安定な他者に対しての欲求」というものが共同幻想の脆さに繋がっていることに気付く。

それと同時に”他者に何も求めることのない人間関係などあるだろうか?”という疑問にぶつかる。

繰り返しになるが”共同幻想の強度”はなにも二人の人間としての道徳的レベルやお互いの依存度のことを指すわけではない。

たとえモラルがあって同じような幻想を抱いていた人間同士だろうとも家庭裁判所で離婚調停をしている夫婦のやりとりを見てみれば嫌でもそのことがわかる。

そういった意味において”こじらせ”も”メンヘラ”も関係なく”恋愛は幻想である”と言い切れてしまうことがわかる。

他者に何も期待しない、何も求めない、全く依存しないカップルがいるのなら話は別だけれど。

(どんな夫婦もカップルも互いに対する悪口はほとんど同じようなものだ)

関係ないけど参考までに”メンヘラ女子が相手に求めるもの”のアンケート結果も記しておく。

イチロー調べ

どのようなカップルにおいても、幻想が解けたときに初めて相手のことを一人の人間として本当に尊重していたかが分かる。

お互いに”一人の生きている人間として”大切に相手と接してきたかが問われる。

“こじらせ男子”は他人を甘やかせてただけじゃなかっただろうか?

“メンヘラ女子”は他人に寄りかかっていただけじゃないだろうか?

逆のパターンだって、世の中にはいくらでも存在するだろう。

“恋愛幻想論シリーズ”の最終章は”こじらせ男子”と”メンヘラ女子”の枠に囚われず、カップルの共同幻想について考えていこうと思います。

ポプテピピックより

恋愛は幻想として強化する・最底辺の恋愛とは

大多数の人の”恋愛における理想的な関係”というのはこの共同幻想の話で言えば”自己犠牲を持ってして互いに献身的に尽くす”と言ったところだろうか。

“お互いのための関係性を守るためなら命をも投げ出す”

側から見たら息苦しいことこの上ないが、あくまでも二人の共同幻想の理想という意味では究極はここなのだろう多分。

“こじらせ”も”メンヘラ”も最初に関係が始まった時は「ただのバカップル」状態であることが多いのだが、途中から気がつくと献身的になっているのはどちらか一方になってしまっている。

これは恋愛の話でよく聞かれる「男女間のイニシアチブ」の問題にも当てはまり、このような壊れた状態での恋愛を大切にしたところで関係は強化されにくい。

それでも尚この状態で盲目的に強化されていく共同幻想はもはや”カルト宗教”に近いと思う。

この点だけを考えると”こじらせ”と”メンヘラ”の関係性は一般のそれよりも脆そうに思えるが、しかしそれはメンヘラの持つ特性として”自分に好意を持っている興味のない異性に対してはめちゃ冷酷“というものがあるせいだと考えられる。

実際にはどのような人との、どのような関係性においても、理不尽に相手を抑圧するような人との関係に未来があるとは思えない。

(自分の世界に割いている脳の容量が多すぎて他のことが疎かになるのはメンヘラの大きな特徴でもある)

この辺のことで自分の経験則や老婆心から言えることがあるのだとすれば「”メンヘラ”にキープされている”こじらせ”に昇格するチャンスなどない」と言ったところか。

彼女たち(メンヘラ)は自分の自尊心と精神の安定のために周囲の男性(自らに好意を持っている)に対して”餌を撒き続ける傾向がある”のは知っておいた方が良いだろう。

(ありえない時間にかかってくる元カノ・メンヘラからの電話は”こじらせあるある”だ)

ポプテピピックより

“互いに献身的に尽くす”のとは逆に、この共同幻想の底辺というのは恋愛関係に”金銭”が介在するような場合かもしれない。

異性恋愛での売春のようなケースでは男性は”金が欲しい女性の弱みに付け込んで侮辱”しているとも言えるし、女性は女性で”体を餌にして男性を金を得る手段に貶め”ているとも言える。

この場合の共同幻想レベルも先に述べた「調停中の夫婦」と同じようなもの(慰謝料・養育費などの”金銭”で争う二人)だし、道徳的なレベルはさらに下を行く。

このように恋愛に”資本主義的な幻想”というものが介在することによって、恋愛はその価値を貶められていくことになる。

(多くの人々が打算による結婚を無意識的に嫌悪するのはこのためだと考えられる)

そのため”こじらせ”と”メンヘラ”の関係性はふたりだけの仮想世界を作り上げて「お金?なにそれ?おいしいの?」状態となるため、一般の人の角度からは強固なものに見えるのかもしれない。

それでも近い将来このふたりは、愛やら恋やらで乗り越えることができない”実際的な問題”とか”物理的な障害”によって共同幻想の強度を試されることになる。

そしてそれは、世の中のあらゆるカップルにも言えることなのだろう。

ポプテピピックより

“こじらせ”や”メンヘラ”とは別の世界の住人であると思える売春を行っている人たちも、自分のほんとうに大切な人には”弱みにつけ込んで相手を侮辱する”なんてことはしないだろう。

つまりは売春を行っている人のことを別の角度で見れば”こじらせ”であり”メンヘラ”でありえる。

ここで言語化したいのは共同幻想や人間関係というものは”そんなレベルで結ばれてしまえばそんな関係になる”ということ。

結果的に同じ人と付き合うことになるとしても、その関係を構築する”手段”がどのようなものであったのか?ということで、同じ相手でありながらも全然違う人間と一緒にいることになると言える。

これは本当に大切なことだけど、意識して生活している人は少ない。

金銭を餌にした時の他人。

性的に誘惑した時の他人。

愛情に訴えた時の他人。

暴力を振りかざした時の他人。

結局は自身の用いた”相手と一緒にいる手段”が共同幻想の性質になる。

それこそが今騒がれているあらゆる「DV」だったりあらゆる「ハラスメント」の起源になっていると考える。

僕らは実際的には「自分という視点」からしかパートナーを見ることができない。

幻想を共有しているつもりの人間でも、関係構築の手段や視点を変えるだけで全く別の人間がそこにいるはずだ。

他人は自分自身の固定的な性質にはならない。つまりはだから”恋愛は幻想”なのだといえる。

ポプテピピックより

人間の多面性・恋愛幻想論まとめ

今回の”恋愛幻想論シリーズ”は自分の経験から”こじらせ男子とメンヘラ女子の生態と魅力”を言語化しようとしてきました。

自分の話をするのは恥ずかしいけれど”こじらせ”が自分の過去を「ネタにする」ことが出来るのってもある種の成長だなと勝手に感じている。

(”こじらせ”と”メンヘラ”は自分たちの黒歴史を笑うことができない)

社会で生活していく中で自身の異常性に気付いて、それを改善して前に進もうと考えるのであればこの記事で取り上げてきたような”黒歴史”を直視して自覚しなくては先に進めない。

僕の場合そのキッカケが嫁との出会いであったり結婚であったり育児であっただけの話。

それは様々な人生を生きているあらゆる人たちと同じだと気付いて、自分のこじらせぺディアに載っている知識が他の人の助けになるでは?と思いここまで書いてきた所存です。

恋愛は幻想ではあるけれど、幻想としての価値はあるということを丁寧に書いてみたかった。

本当に大切な人に出会ったときにこの記事が”メンヘラ”や”こじらせ”の役に立つことを願って、今日も文章を使用した瞑想を終わります。

さんざん書いてきたけれど、自分自身との恋愛にのめり込まないように注意してくださいね。

今日はこんなところで。

❇︎注意❇︎

このシリーズで使用されている”こじらせ”と”メンヘラ”の言葉の定義としては

性格上のセンシティブな面の特徴で分けた便宜的な呼び方でしかなく

以前書いた精神疾患のような具体的な病気を扱ったものではありません。

(”こじらせ”は「頭を消耗する人」”メンヘラ”は「心を擦り減らす人」と理解してもらうといいかもしれません)

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