【デザインのマネタイズ】働かないで生きるシリーズ5【ただの日記】

働かないで生きる

めっきり秋めいてきた。めっきり?

最近になってまた自分の中で落語ブームがきている。

というかずっと好きではあったのだが、コロナの関係で仕事で落語を聞くような機会がなくなっていたので、それが戻ってきた反動かもしれない。

個人的に落語(古典落語)の面白みは、同じ噺でも噺家によって全然違う風合いに聞こえたり、流派によってエンディングや内容が若干変わったりする所だったりする。

松っちゃんのやっている「すべらない話」もこの辺の古典落語の良さを現代アレンジしたものを作りたかったんじゃないかなぁ。

最初の頃は、同じ話をアレンジして何度も喋っていいってルールを押し出していたし、いわゆる「テンドン」のような飛び道具としてではなくもっと古典話芸の原型になるようなものを目指してたんじゃないかと勝手に思っている。

ちなみに今日の師匠の「寝床」は良かった…松っちゃんの「駐車場に閉じ込められた話」くらい良かった。

寄席で使っているマイクはお馴染みの38(サンパチ)って物なんだけれど、次回から違うマイクでチャレンジしてみようかなぁ・・とか、話芸の時のスピーカーのチューニングについてを一人で考えたりするのも好きな時間だ。

こんな風に自分の憧れている人(噺家みたいな)の力に僅かながらでもなれたり、お金をもらいつつも腹を抱えて笑える瞬間があったり、こんなことを人生で何度も体験している僕は本当に恵まれすぎている気がする。

きっとそのうちブクブクに太って、ハゲ散らかして全てを清算する日が来るに違いない。

人生としてのアート・自立をデザインする

こんな風に「自分がこうしたい」と思うことを金銭獲得の方法とか仕事にするためには、自分自身の心の声に対して素直に(あるいは真面目に)耳を傾けなくてはならない。

自分が欲しいものがわからない限り、自分の欲しいものは手に入らないからだ。

「自分がこうしたい」ではなくて「決まりごととしてこうすべき」みたいな他者的な論理で動くのはなかなか危険な思想で、それはホロコーストに加担したアイヒマンのドキュメンタリーを観ていて強く思った。

「もしも彼がより人間的だったなら、彼の人間性が悪の機構に加わることを許さなかっただろう。彼がより非人間的だったなら、仕事の有能さに欠けていたことだろう。ところが彼はその中間であり、ボタンを押せと命じられればボタンを押し、そのボタンを正確に押すことだけに腐心してしまい、ボタンを押せば誰がどこで生命を失うかといったことは考えもしないという、まさしく陳腐な人間を体現していたのだ。」

心理学者ブルーノ・ベッテルハイム

「アイヒマン問題は過去の問題ではない。我々は誰でも等しくアイヒマンの後裔、少なくともアイヒマン的世界の後裔である。我々は機構の中で無抵抗かつ無責任に歯車のように機能してしまい、道徳的な力がその機構に対抗できず、誰もがアイヒマンになりえる可能性があるのだ。」

哲学者ギュンター・アンデルス

アイヒマンは凶悪な意志を持っていたというよりも「一種の歯車として、忠実に仕事をこなしていた」人物で、日本の社会の中でもこのようなポーズで働いている人も多いと思う。

その姿勢が仮初めのスタイルだったとしてもミイラ取りがミイラになるように、新入社員が次の年には立派なブラック社員になっていることだって少なくないように思う。

意志の代わりに自分の頭に規範(想像力の欠けた)を詰め込むことは、めんどくさい葛藤から逃れるために意志のほうを手放してしまった人間なんだと思う

自分の意志などはじめからなかったら、何かに服従することに屈辱を覚えないし、理想的な支配のされ方は権力者にとっても都合がいい。

ここまでの話だと一見不利益を被っている人間は居ないように思えるが、この問題の厄介なところは歪みが発覚した時点で、取り返しがつかなくなっている点だと思う。

きちんと一生懸命演技をする。ふりをする。そんな演技を長くきちんと続けているうちに、じっさいになれます。人格とはほとんど役柄のことなんです。

村上春樹・村上さんのところ

生まれたばかりの子どもは父親や母親や周囲の人間に頼って生きていくしか方法がない。

そこから何年か経って成人しても、現代的にある程度の水準で都市生活を送るならば社会の仕組みの中で生きるのが通常ルートになる。

その過程で「こうしたい」のみの子供から卒業して、「こうすれば自分の理想に近づける」となるのが大人なのだとしたら、「こうしなければならない」のみの社会人はもはやロボットと差異がない。

旅も人生も自分でたくさん考えて、方角や道を描いていくことが重要だと考えるイチローにとっては、それはもはや精神上の死のように思える。

ロボット状態でも月に20万円も稼いでたら「自立してる」って周りは褒めてくれたりもするけれど、その代償として失われているのが自分自身だったとき、少なくない確率で大切な人を巻き込んで不幸になっていく。

このとき、近しい人には「どんどんおかしくなっている」とはっきり分かるのに、本人は自覚することすらできない。

なにが失われているかもわからないから、なにがおかしくなっているかもわからない。

これは人として絶対に避けなければならない状況だと考える。

「みんな、たいへんいそいでるね。なにさがしてるの、あの人たち?」

「それ、機関車に乗ってる男も知らないんだよ」

「星の王子さま」サン=テグジュペリ

そもそも社会の仕組みそのものが構造改革を求められているような現在のような状態だとこれまで当たり前だった「自立」という定義ですら揺らいでくる。

未知のウイルスによって今までのロボット型人間の「自立」を支えてきたシステムが崩壊寸前まで追い込まれている。

今の日本は残念ながら政治家のひとや未来のひとたちに頼り切って生きていける感じじゃない。

(蛇足かもしれないが、あくまでも人間の自立は地球や太陽などの自然エネルギーの上に成り立っていることを忘れない様にしたい、それとそろそろ文章を中和しなくては息ができない)

ドラえもんより

政治の世界でも改革が求められている現状で思うのは、イチローは家族や友達も含めてみんなが幸せなら独裁でも民主でもこだわりはないのだけれど、自分が思っている理想的な社会は、どの派閥も知性的で、想像力があって、お互いを尊重できるグループであってほしい。

もちろんどの派閥もグループも、自分の考えや立場が変わった時に抜けたり入ったりが自由にできるようじゃないとダメだとも思う。人は変わるし変わらなくては生きていけない。

(そうやって冷静に考えてみると独裁型システムでは無理っぽい。)

とにかく支持政党とかイデオロギーに関係なく、誰もお腹がすいてツラくなったり、無意味に虐げられたり、恨んだり、恨まれたりしないでほしい。

最終的にはみんなが今よりももっともっとバラバラになって、お互いに干渉せずに知性・知恵を伴った行動をとっていければ、どんな考え方のひとがいたっていいんじゃないかって思う。

こんな風に自分なりに考えてこのシリーズを書いてきました。

(次週くらいが最終回だと思うけど)

もう一度言うけど、旅も人生も方角は自分で決めて、道を描いていくことが醍醐味だと思う。

そんなわけで今日は、遊びながら自分でデザインしたものや、遊びながら作ったアートでお金をもらっちゃう話です。

自立をデザインすることは人生を創造することにつながると思うのです。

なんかうまいこと言えた感じなので終わっても良さそうなのですがここから本題です。

デザイン・アートでお金をもらう

働かないシリーズ第5弾はデザイン・アートを金銭変換する方法。

「デザイン」と「アート」ってわざわざ言い方を変えているのは理由があって、僕が思う「デザイン」っていうのはお客様ありきのモノ。

僕の思う「アート」は自分本位のモノ。と勝手に理解している。

(辞書とか引いてないので違ったらすみません)

自分のデザインしたもので金銭変換したことがある人は肌で感じていると思うけど、最終的な出来栄えにクライアントの要望が乗っかるのであれば、それはもうアートではないと思う。

その理論でいくと、過剰にマーケティングを重視したり、市場のニーズに合わせた制作している人は「アーティストではない」ということになってしまうのだけど、そのへん今回はテーマと趣旨が違うので受け止め方は読んでいる人に任せることにします。

わたしは個人的にデザイン・アートをこの様に解釈しているので、これから出てくる「デザイン」とか「アート」って言葉もその様に理解して読み進めてもらうと誤解が減るかもしれない。

イラスト

まずわかりやすのが「絵を描いてお金をもらう」方法。

イラストってプロ並みの技術が無くても需要があって、その人独特のものが描ければ意外と金銭変換が可能。

ウェブ媒体とかメディアにツテがある人はそこから「一枚いくら」みたいな挿絵の仕事なんかも多いし、業界に知り合いがいなくたって今はSNSが個人のポートフォリオになる。

自分のイラストの「カラー」と「短時間で量産・校正が可能」なことをアピールできれば、フォロワーがそこまででいなくても依頼は来たりする。

この時ブログに投げ銭システムを連動させておくと決済がめちゃラクチン。おすすめ。

ただ現在はどうしても納品時はデジタル化する必要があるので、その辺の環境は揃える必要があるし、アナログの絵師はペンタブなどでの作業にも慣れる必要はある。

でもその過程もすごく楽しいので、絵を描く人にとってはすごく良い時代になったと思う。

gigazineより

グラフィックアート・グラフィックデザイン

IllustratorとかPhotoshopを本業などで使用している人にオススメの方法が「グラフィックアート」です。

やはりSNSで自分のカラーを主張できるポートフォリオを作ることができれば、どの業界にも需要がある技術です。

イチローは友達のバンドグッズのデザインくらいしかしたことがないけど、まさに遊び心のみの金銭変換方法って感じですごく感動した思い出がある。

デザインが思いつかないって人はIllustratorで既存の商品の「リデザイン」とかから始めてみてもいいし、Photoshopが使用できるならテクスチャーの「合成」でグラフィックアートの雰囲気を体現できる。

この手の遊びは、まず始めてみることが重要だと思います。

イラストにも言えることなんだけど、グラフィックも基本的には売り切りの使い捨てで金銭変換することが多いので、自分の作品として思い入れが出来てしまうとちょっとツライ。

あとは「一枚いくら」でクライアントから仕事を受ける形になるので、作業量や校正回数が多いデザインに関して製作者の利益が割安になっていってしまうのは欠点かも。

他にはオリジナルTシャツを印刷してヤフオクなどで売る方法もあるし、ロゴのデザインができればランサーズのコンペに応募して報酬を受け取ることも可能だ。

アウトソーシングの可能性は本当に多い技術なので、デザインソフトが使用できる環境であればオススメの遊び方です。

asoboadより

webデザイン

前の記事でチラッと言ってた方法「コーダー」とか「エディター」の話ですね。

今まで紹介してきた金銭変換方法は「売り切り」だったのに対して、Webページの制作は更新とかプラグインのアップデートとかの面倒もみなくてはならないので継続的なアフターケアが必要になります。

その分一本あたりの単価は高くって、継続的なケアにもサイトの売り上げの割合に応じた金額で報酬が支払われることが多い。

ただそんなガッツリ仕事感のある方法でなくても、ランサーズとかで既存のサイトの「コーダー・エディター」を募集していることもあるので、

自分の得意な言語やソフトウェアを使用している仕事内容のものだったら遊び感覚でやってみてもいいかも。

LIGより

まとめ・デザインのマネタイズ

今日はデザイン・アートで金銭変換する方法ってことで考えてきました。

このシリーズももう5回目になりますが、そろそろネタ切れかもなぁ。

ただ色んな意見の中で需要があることも分かってきたので、思いつく限り書いてみたいと思ってます。

思ってるんですが自分の経験していないことは書きづらいので、誰かなんかネタあったら教えてください。

万能でもなければ、たいして賢くもない人間ですが、それでもこれからも自分の感じた通りの感覚で言葉にしていければと思っています。

自分でデザインとかイラストとかを遊びでやっている人が、その分野でマネタイズを試みた場合に最初に浮かぶのはアウトソーシングのコンペだと思う。

僕も最初はランサーズのコンペに闇雲に応募していたのだが、デザイン・アート分野では全くマネタイズ出来ていなかった。

個人的にコピーライティングとか記事広告のコンペよりハードルが高い気がする。

デザイン関連のアウトソーシングをやっている友達に話を聞いた時に納得したのが「デザインコンペは要するに美人投票」だって話。

コンペは「クライアント受け」を第一に考えることになるのでデザインに対する「自分のセンス」が邪魔になることが多い。

しかもそのクライアントが「個人(選ぶ人間が一人)」ではなく「企業(選ぶ人間が複数)」だった場合もっと複雑で「どのデザインが良いのか?」という作り手の心情以上に、

「どのデザインが他人にとって良いと思われるか?」という一対一の関係すらも超えて、

「どのデザインが他人に良いと思われると予想されるか?」という複数人の思惑にまで発展する。

最初の話に戻ってしまうのだが、ここまで作り手の主観性を離れてしまった作品に対して、やはり僕は「アート」と呼ぶことに抵抗を感じる。

だから今回はSNSでポートフォリオを作って「これしかつくれまへん」って感じのやり方を中心に紹介してきました。

やっぱり遊ぶなら楽しくないといけまへん。

自分の最高傑作に泥を塗ってお金にするなんてナンセンスでおま。

ってかまだお金なんて流行ってるの?って感じ。そういうものにわたしはなりたい。

なんかこういう話は業界内でも発信者と受信者との関係性で言われていることに似ている。

例えば広告代理店とか、番組の制作会社の内部ではどうしても受け手側の目線まで下がって作品を作っていくことが多くなる。

でもそれがここ10年は「作品の陳腐化」とか「表現の既視感」の言い訳になっているような気がする。

すごく乱暴に言うと「バカにでも分かるように作っているんだからツマラナイのは仕方ない」みたいな空気すら感じる。

言葉で表現できなくても分かっている人が多いと思うけど、音楽業界でもこの空気は昔からあって、新譜にワクワクしなくなったバンドとかアーティストにはこの現象で大抵説明がつく。

すごく寂しくなったりするのでこの話はここで終わりたい。

この辺の自分以外の人間に対する邪推や卑下がもたらす悪影響っていうのは、なにもアート分野に限った話じゃない。

「自分はバカじゃないけどみんながバカみたいな行動をするかもしれないのでその対策として同じ行動をしないとならない」

って感じで春先にはマスクもティッシュもトイレットペーパーもオムツすらも買えなくなった。

さすがの僕も伝家の宝刀「そうはいかんざき」もしくは「遺憾の意」を出すところだった。

愛情はただの義務ですか?親切はただの努力目標ですか?僕は春も秋も花粉症ですが?

もはや現代社会はウォーキングデットさながらですよ、いやほんとに。

(全然観たことないです、ごめんなさい)

このあたりの話だって、今まで書いてきた一人一人の知性と想像力で改善していけそうな分野だ。

100年以上前に書かれた「学問のすすめ」って本で福沢諭吉さんは格差社会を憂いて、国民みんなの独立と自尊を推奨して、そのためには教育が必要不可欠だと言っていた。

文章を書いたり本を読んだりしていつも思うのは、自分の味方や理解者は時間や空間を超えた場所にもたくさんいる。

そういう人たちがいるから今日もなんとかやっていくことができるのだと思う。

おしまい。寝ます。

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