【落ちている価値】働かないで生きるシリーズ2【ただの日記】

働かないで生きる

先日、子どもを連れて初めてキャンプに行ってみた。

ニワカなりに色々アウトドア用品を買い揃えたこともあって、これからもライフワーク…

とまではいかないにしても、バーベキューの足手まといにならないくらいにはなりたい。

こうやって少しづつでも自分で出来るようになることが増えていくのって本当に楽しい。

冒険の途中で「ケアル」とか「サンダー」が使えるようになるみたいだ。

人生ってつまり冒険で結局はファイナルファンタジー。

冒険の最中の自分も例に漏れず、音楽や文章は生活の一部になったし、パソコンやテクノロジーの知識は手足になって人生を支えてくれている。

遊びながら出来ることが増えていったらそれはpreciousだし京都の人に言わせればうれしおす。

子供と一緒にいると、このような「遊びながら学ぶ」っていう人生において当たり前だけど、とても大切な要素を毎日思い出させてくれる。

なにせ寝ている時間以外は全く休みなく遊んでいる。

そしていつの間にか言葉らしきことを発しながら、笑ったり怒ったりするようになる。

父親の真似をしたり母親の真似をしながらちょっとづつなんでも出来るようになっていく。

遊びのお手本であり、自由の象徴みたいな小さい人がそばにいることを嬉しく思う。

大人だって遊びまくってその間に知識や金銭を獲得出来るのであれば、効率や数字では測れないメリットが生まれるだろう。

このブログを読んでいる人はなんとなく分かってくれていると思うけど、僕は「金銭効率」とか「どれだけ稼いだか」にはほとんど興味がない。

子供に倣って昨日までちょっと出来なかった事とかに挑戦して、遊びながら成長したい。

そんで真剣に遊んでたら、なぜか知らないけど最終的にお金とか食べ物とか知識とか技術をゲットしている様な人でありたい。

心の底からそう思う。

大人にとって自由になるってことは、つまりは選択肢があるってことだと思っていて「やりたい事」や「やらなきゃらならない事」に対してのアプローチの数が重要になる。

自由になるには出来ることを増やす必要があって、出来ることが増えれば選択肢が増える。

昨日まで「買っていたもの」や「借りていたもの」を「作ってしまう」ことが出来たら、それはまさに昨日より「自由になれた」という証拠だろう。

その上で物を「買ったり」「借りたり」する選択肢を否定しない。

お金で解決する以外の選択肢がコマンドに含まれるというだけでも、その人は十分に自由だからだ。

それを踏まえてこのシリーズでは、僕が人生で実際に「自由」を獲得したと感じてきた事柄について書いていくことになるんだと思う。(たぶん)

人生という冒険は自分がやる・自分がやらない、を選べるようになるだけでもかなり自由な状況に身を置くことが出来る。

それは生きてきた中で何度も感じてきた事だ。

資本主義に喰われたヒーロー・80-90世代イデオロギーについて

前置きが長くなってしまったのだけれど、ここから本題に入るまでにまだ前置きがある。

すいません話をまとめるのが下手で。まぁヒマな人は付き合ってください。

さっき言ったみたいに「金銭効率」だとか「稼いだ金額」なんかに興味が持てなくなった趣旨の話を同世代の(音楽好きな)人にすると、みんな同じ様なことにウンザリしていた。

みんな多かれ少なかれ後期資本主義のシステムに違和感を感じていて、繰り返し出てくる同じようなアーティストとかタレントにウンザラだったりする。

その上、00年代に入ってからの消費社会はメインストリームに留まらず、市場の終わりのない欲望を埋めるために(あるいは資本主義が求める成長のために)僕たち個人個人が大切にしていたアンダーグラウンドのアートや音楽にまで手を伸ばしだした。

いわゆる「メジャー化してダメになる」とか「大衆にスポイルされる」っていう現象は資本主義社会が持つ大きい罪だと思う。

僕たちの世代は、自分の大切にしているアートを無秩序に消費させたり(僕たちはキレイなパッケージや間延びした続編など望んでいない)お気に入りのラーメン屋にわざわざ行列を作らせる(例外なく味も落ちる)社会にはもうウンザガなのだ。

ファイナルファンタジーシリーズの魔法形態(ファイナルファンタジーシリーズのまほうけいたい)ではファイナルファンタジーシリーズにおける魔法について述べる。各作品がそれぞれ独立したストーリーを持つ本シリーズであるが、その変遷を見ると、魔法に関しては統一された形態を持つものと見ることが出来る。

Wikipediaより

これらの出来事を語る上で欠かせないアイコンがニルバーナのカート・コバーンだ。

「カートは自殺したんじゃない、資本主義に殺された犠牲者だ」

って言うのが音楽好きな人のセオリーな考え方なんだけど、最近イチローはちょっと違う事を思うようになった。

ものすごい簡単に言うと、カートは資本主義のシステムに組み込まれていることに絶望して自死を選んだ。

そのシステムに組み込まれるとどのように振舞おうと脱出は不可能で、音楽的な成功も社会に対する批判も全て資本主義システムを肥やすエサになった。

自分の発言はあらかじめ台本でも組まれていたんじゃないかと錯覚してしまうほどに、メディアに消費され続け、その異常性に精神を病んだ。

あらゆる動きが事前に予測され、検証され、追跡され、金で購入された。

結果的に、カートの自死でさえもそれまでの楽曲にリアリティというデザートを添える形となり、レコード会社を潤わせた。

(わたしは未だにニルバーナのTシャツを買うことができない)

好きすぎて言えることが少ない

こういった一連のスペクタクルのデットロック状態からリタイアする形でカートは27クラブの仲間入りをしてしまったのだけれど、僕はみんなが言う「資本主義に敗北した」っていう感覚とは違う意見を持っている。

個人的にはカート・コバーンは「資本主義と刺し違えた」と、そう考えている。

その理由としては現状の資本主義に疑問を持ち、距離を保って接そうとしている人へ与えている影響が少なくないことや…

カートの死をキッカケにお金を移動させるだけのシステムや、消費されるためだけのヒマつぶしのカルチャーに興味を持てなくなった僕たちが生きていることが証明にならないだろうか。

なったらいいなぁ。

自分の人生に刺し違えてでも屈しない精神を忘れたくない。

この辺の話が深く知りたい人はマーク・フィッシャーって人の「資本主義リアリズム」って本が的確に言語化できていていいと思う。

マーク・フィッシャーも同じ様な理由で自殺しちゃったんだけど。

強制ミニマリスト生活・販路の確保

ほら。働かないで生きるシリーズなのに、全然そんな話が出てこない。

とにかく、そんなこんなで僕は働かないで暮らしたいのです。

ちょっと都合が良すぎるかもしれないけど、この先もずっとお茶目な感じで人生を乗り切って行きたい。

そんでカートの話をしながらも昔の自分を思い出していたんだけどアルバイト以外で最初にお金を稼いだことってなんだろう?って思ったら、東京で一人暮らししてた時に初めてヤフオクで物を売った事だなと思いました。

家賃が払えなくて、家にある物をとりあえず色々売ったんですけど結構まとまったお金になって「バイトよりいいな」って思いました。

そんな感じで家にあるものを片っぱしから売っていったので、今でいうミニマリストの走りみたいな生活を送っていました。

「働かないシリーズ」なんて言っといてヤフオクかよ!!

みたいなクレームも聞こえてきそうですが、基本的な事として不用品の販路を持つことって日常生活ですごく大切な気がしています。

不用品をお金に変換できることで、部屋のスペースも広く保つことができるし、心理面においても物を買う時に売値を考察するので消費のハードルを上げることが出来る。

リアルに「働かないで稼ぐ」ってことを考えたら、特別な技術もいらないこの手段は最初の一歩としてなかなか良いのではないでしょうか?

ヤフオクの他にも今ではメルカリもあるしAmazonでだって個人販売できるようになった。

イチローはその辺の、生活の余剰エネルギーを利用することがすごく好きだ。

太陽光を使ってシルクスクリーン(Tシャツの版)を作るし、大気の力(発酵)を借りてパンを作る。

そんな自分が不用品や生活の隙間時間を使ってお金を作るのは自然な発想だったのだろうと思う。

冬になるとストーブの余剰エネルギーでモチを焼いてくれていた母の影響だろうか。

何か必要になると木工でなんでも作ってくれた父の影響だろうか。

ストーブの天板を使うサスティビリティさと、生活と木工を融合させたクリエイティブさを基礎にして、僕は自身の人生にエキサイティングさを付与してみたい。

こんな時間だけど、なんか無性におモチが食べたくなってきた。

センチメンタルってやつかもしれないと思ったけど、ただの空腹のようだ。

写真はイメージです

まとめ・落ちている価値について

ヤフオクで不用品を処分してた頃、中古のCDを漁っていた時にクワフトワークっていう人のCDを500円で見つけて購入したことがある。

家に帰ってプレイヤーに入れたけど聴けなくて、パソコンに入れても認識しない。

よく見ると「SACD」って書いてある・・CDじゃないの?

スーパーオーディオCD(スーパーオーディオシーディー、Super Audio CD, SACD, SA-CD)は、1999年にソニーとフィリップスにより規格化された、次世代CD規格の1つ。製品の発売日は1999年5月21日。

wikipediaより

ヤフオクで売ってみるとなんと10000円で売れた。

こんな風に道端に落ちている価値みたいなものに出会える条件としてSACDを知っているという「知識」も大切になると思うけど、自分がそもそも好きな音楽を探す生活を送っていたってことが1番大切な要素なんだと思う。

生活においてこういったことはジャンルを問わず意外に多いと感じる。

多分、中古レコード屋とかでひたすらSACDを探せば儲けることも出来るんだろうけれど、きっと今まで楽しかったレコードを掘るという行為が作業になってしまうだろうし、中古CDを市場で回転させることはアーティストにとっても喜ばしいことではない。

ただそれでもうんざりしない程度に個人の遊びとして付き合っていける作業量なのであれば、やってみてもいいのかもしれない。

ただ、CDに関して言えばebayで仕入れて国内で売った方が競合相手がいなくていいと思います。

いわゆる個人輸入ってやつで、決済にpaypalが必要になったりして多少ハードルは上がるけど、ネット検索が得意で英語に抵抗が無い人には結構オススメ。

…こんな感じでこのシリーズは続いていくのだと思います。

次はなんの話をしようか。考えときます。

「働きたくない」って思ってこのブログを見ている人がいるなら、投資・執筆・創作・音楽・探索みたいな、自分が遊べて生活の一部に落とし込める要素がある物から始めてみるのがいいかと思います。

興味のないツライ仕事とか、面倒な人付き合いとか、やってる場合じゃない。

遊びにも生活にも仕事にも、明確なオンオフなんて必要ないと考える。

シームレスに生活する、切り替えない素敵な大人として生きていきたい。

やっぱり僕は都合が良すぎるだろうか。

だめだ眠い。寝る。

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